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大阪の風俗店はなぜ看板を出さないのか【大阪風俗の歴史】

大阪と言えば大きな看板にネオンサイン!というイメージがあるかもしれません。他県の方が大阪に遊びに来て、よし風俗に行こう!と梅田や日本橋をウロウロしてみると、看板が出ていないのでどこに行けばよいかわからない…というのは良く聞く話です。大阪がちょっと特殊な営業形態になっているのには、少しワケがあります。

大阪万博でソープが絶滅

万博やオリンピック、サミットなど国際的なイベントが日本に招致されるたび、夜の街は何かと「浄化作戦」の影響を受けてきました。大阪では、昭和45年の大阪万博の陰でソープランドの源流、トルコ風呂の多くが廃業に追い込まれ、その影響で神戸福原や滋賀雄琴で開業が相次いだといいます。

その後80年代にかけて、ソープランドはキタ・ミナミ合わせて40店舗を超えるまでになりましたが、1990年の国際花と緑の博覧会(花博)のタイミングで浄化作戦が行われ、大阪のソープランドは絶滅を余儀なくされました。

一部の旧ソープランドの建物は、店舗型ヘルスとして生まれ変わり営業を続けています。大阪の店舗型ヘルスの部屋が妙に古いのは、こうした理由があります。

ホテヘルが大阪で生まれるまで

店舗型の風俗営業が難しいとの理由で考え出されたのが、マンションの一室で受付をして、別の部屋でプレイを行うマンションヘルス。通称「マンヘル」でした。大国町周辺はマンヘルの聖地と呼ばれるほど隆盛を誇ったのですが、雨後のタケノコのように増えすぎたのが災いとなり、こちらも当局のお達しにより数年であえなく全滅。

その際考えられたのが、マンションの一室で受付をして、近くのホテルで遊ぶというホテルヘルス。通称「ホテヘル」です。石原都知事の歌舞伎町浄化作戦以後の東京でも見られたこの形式は、大阪が発祥だと言われています。

デリヘルも増え、群雄割拠の状況に

ホテルヘルスの発祥は「マンヘルは違法区域営業が横行するもとになるから、ホテルの近くでエリアを限定してならOKにしましょう」という一時的な措置だったのでしょう。ホテヘル自体が爆発的に増えたタイミングで法改正が行われ、現在では新規開業は原則的に不可能になりました。

その代わりに店舗を構えなくても営業ができるデリバリーヘルス、「デリヘル」が増えていったのです。こうして大阪は、ソープランドは0店舗で店舗型風俗店がほんの少し、あとはホテヘルとデリヘルという独特な形態になっていったのです。

ホテヘルは受付こそありますが、路面や建物には18禁マークの掲示のみ認められ、店舗名やロゴの表示が認められていませんので、「お店があるのはわかるけれど何のお店が入っているかはわからない」という店構えになっています。看板を出さないのではなく、出したくても出せない、というわけですね。

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