大阪風俗の歴史総まとめ

遊郭からノーパン喫茶、マンヘル、ホテヘル…大阪風俗の歴史を総まとめ!

今や一大産業として成長を遂げた風俗産業。大手風俗ポータルサイトの数字上では、大阪では府内だけでも800店舗、2万人以上が従事しているとされています。大阪の風俗業界は、歴史的に何度も何度も規制され、そのたびに独創的なアイデアで人々を楽しませてきました。今回はその歴史を紐解いていきたいと思います。超大作です。

起源は江戸初期、「遊郭」の時代

江戸時代初期には、すでに「遊女屋」が市内に点在していたといいます。風俗街の原型、「遊郭」として形ができたのは1626年ごろと言われています。江戸幕府に遊郭設置の嘆願をしたのが1616年、立ち退きや区画整理を経て、各地の遊女屋を集めて大阪唯一の幕府公認遊郭、「新町遊郭」(現在の西区新町)が形成されたのが1627年といいますから、当時のまちづくりの一大プロジェクトだったのではないでしょうか。

江戸時代には、新町遊郭をはじめ、難波遊郭(難波駅前~戎橋筋商店街周辺)、堀江遊郭(西区北堀江周辺)など、各地に遊郭が形成されていました。

かつての「大阪四花街」と飛田新地の誕生

明治中頃まで、「新町」「堀江」「北新地」「南地」が「大阪四花街」として栄えていたといいます。新町、堀江は今でこそその面影のない街に生まれ変わりましたが、北新地は「キタ」として、そして「南地」も「ミナミ」としてかつての色を残しています。

1912年(明治45年)、難波新地(現在の中央区難波)が大火に見舞われます。東西1.4km、南北400mにわたるエリアが焼失、今の難波駅近くが火元で、下寺町(日本橋と谷町九丁目の中間点)くらいまで焼けたといいますから、その凄さがわかります。

この大火を受けて、遊郭を営んでいた者たちが飛田新地を作り上げていったそうです。第一次世界大戦後の好景気を受けて規模は拡大してゆき、昭和初期には200店舗を超える規模に成長。幸い戦災も免れて、戦後も風俗営業を許される特殊飲食街、通称「赤線」として栄えていきます。1958年の売春防止法制定以後は「飛田料理組合」と形態を変えていますが、今なお往時の灯りをともしつづけています。

現在の飛田新地
現在の飛田新地のようす

ちなみにこの大火で街の再整備がすすみ、焼け跡を千日前通りとして広く整備したそうですので、ミナミのまちづくりの転機になったのがこの大火であると言えるでしょう。

戦後の風俗産業の方向性が決まった、ひとつの法律。

戦前は貸座敷や娼妓などの公娼制度があったのですが、人身売買の温床的側面が問題視され、その制度自体がGHQの要求により廃止されました。「赤線」と呼ばれる風俗営業許可エリアでの営業時代を経て、1958年に「売春防止法」が施行され、風俗業界は大きな転換期を迎えることになります。

法律的に「セックス」でお金を取る商売が禁止されたことで、抜け道になるような性風俗業態がたくさん生まれていきます。ここから現在に至るまで

規制→法解釈のすき間をついたアイデアを活かした店舗→警察による規制→新たな業態…

の繰り返しとなりますが、大前提として「売春は禁止」となったのがこのタイミングです。

トルコ風呂、ソープランドの誕生

銀座6丁目にかつて存在した「東京温泉」という入浴レジャー施設。もともと日本初のサウナ施設でもあったこの温泉施設で、個室付き浴場でアカスリを行う補助員によるスペシャルサービス、通称「おスぺ」が提供されるようになり、これがトルコ風呂の原型になったと言われています。表向きはHなサービスはしていませんよ!というテイではあったようですが、もちろん巷の評判になっていきますし、それを真似た店、さらに過激なサービスを提供するお店が増えていきます。

個室付き浴場での性風俗業態、「トルコ風呂」の誕生です。1984年のトルコ人留学生を中心とした抗議運動によってその名称は「ソープランド」に生まれ変わり、現在へと続いていきます。

全くの余談ですが東京温泉の創始者で、「個室浴場でアカスリサービスを行う」というアイデアを日本に持ち込んだ許斐氏利氏はクレー射撃のオリンピック選手であり、右翼団体での活動で吉田茂を襲撃しようとしたり、特殊株主であったり、興行師であったりと様々な顔を持つ超大物です。さらに孫はフリースタイルダンジョンでも活躍したラッパーのUZIさんです。すごい。

まさにアイデア勝負、次々生まれる新業態

トルコ風呂、ソープランドは風俗業態のイチジャンルとして地位を確立します。川崎堀之内に端を発する「マット」サービスやそれに付随する技の数々、「泡踊り」「二輪車(3P)」など独自のサービスも生まれ、進化を遂げていきます。90年代にかけて、さまざまな業態がいくつも生まれては規制の波に呑まれて消えていきます。

1960年代に「ピンサロ」が生まれます。そして70年代末から80年代にかけて一世を風靡したのが「ノーパン喫茶」でした。

ノーパン喫茶
一世を風靡した、ノーパン喫茶

大阪も1980年創業の「あべのスキャンダル」が伝説のお店として、全国に名をとどろかせましたし、歌舞伎町「USA」に所属したイヴちゃんは、風俗業界が生み出した初のアイドルでした。最盛期には東京に200店舗、大阪に100店舗以上存在したこの業態も、競争激化とともにサービスもより過激なものに進化を遂げていきます。

はじめは見て楽しむだけであったものが、お触りありになり、そして個室と抜きが増えていきます。ファッションヘルスはこうして生まれていったという説もあります。

ファッションヘルスの誕生、店舗型風俗の最盛期

1948年に制定された「風営法」にのっとり営業を続けているのが風俗業界ですが、制定から今日まで、実に30回以上も改定されています。

1984年、風営法の大幅改定がありました。フロア+個室の業態は認められなくなり、ノーパン喫茶は絶滅。抜き系風俗店のメインストリームはファッションヘルスへと変化していきます。

規制がかかったら、アイデアを活かして新しいものを生み出していくのが風俗業界です。80年代から90年代にかけて、店舗型ファッションヘルス黄金期が到来します。様々なコスプレで臨場感あるプレイを楽しむイメクラは、中でも特にブームになりました。通勤電車や学校の教室を再現したプレイルームをあしらえた店舗も生まれます。ビデオデッキの普及とともに、AV業界も一気に盛り上がり、エロ産業自体がアンダーグラウンドなものからオープンなものへと変化していったのもこの時期でしょう。風俗情報誌はコンビニでも販売され、誰もが楽しめるものとなっていきました。

大阪風俗は、万博に左右されてきた

上記のような流れが全国の標準的な動きではありますが、法律の運用実態は各都道府県ごとにかなり差があるものでした。こと大阪においては、1970年(昭和45年)の大阪万博、1990年(平成2年)の花博開催に合わせて、店舗型風俗店への厳しい取り締まりが行われてきたのです。オリンピックや万博、首脳会議など世界的なイベントに合わせて全国各地で「浄化作戦」が行われ、そのたびに閉業や業態変更を迫られるのが風俗業界の宿命でした。

特に大阪と京都はソープランドはじめ店舗型風俗店への締め付けが厳しく、平成2年前後の取り締まりでほとんどのお店が廃業を余儀なくされました。その際に規制が厳しくないエリアに移動しよう、となって神戸福原、滋賀雄琴のソープ街が誕生したのです。現行の法律では一度閉業したソープランドはまた業態を戻したり、新規出店したりすることはできませんので、おそらく大阪にソープランドが復活することはないでしょう。

時代のあだ花「マンヘル」という業態

店舗型風俗店の数が激減した90年代の大阪。もちろん大都市ですので風俗への需要はたくさんあります。そこで増えたのが1998年の風営法改正により生まれたデリバリーヘルス、通称「デリヘル」とマンションの一室でサービスを提供するマンションヘルス、通称「マンヘル」でした。

マンションの1室を受付にして、別の部屋でサービスを提供するこの業態。もちろん風営法にのっとった営業形態です。大阪では大国町や黒門市場周辺で特に流行し、「大阪の風俗といえばマンヘル」という時代がありました。警察としても、店舗型風俗店を締め付けて数を減らしたものの、風俗業界がアンダーグラウンドに流れていくよりも営業実態の見えやすいマンヘルの方が何かとコントロールしやすいと考えたのでしょう。

ただ、マンヘルの流行は弊害も生んでいました。店舗が増えるとともにマンション住民から苦情が相次ぐようになったり、風俗業禁止エリアでの営業摘発も相次ぐようになってしまったのです。

2006年の風営法改定を機に、マンヘルも一斉壊滅の憂き目に遭ってしまいます。

大阪にだけ「ホテヘル」が多い理由

マンヘルの壊滅とともに、暫定的に生み出されたのが「受付はマンション等、サービスはラブホテル」というホテルヘルス、通称「ホテヘル」でした。全国的にみて大阪にだけホテヘルが多いのは、マンヘルが爆発的に流行して、その受け皿として多くのホテヘルを認めたからなのです。これは他の都道府県にはない大きな特徴といえるでしょう。

現在の大手ホテヘルチェーンの多くは、実はマンヘルにその源流を持っています。受付にマンション風の建物が多いのは、その時の名残でもあります。店舗は必然的にミナミは日本橋、キタは兎我野町などラブホテルの多いエリアに集中するようになりました。

大阪の風俗店はなぜ看板を出さないのか【大阪風俗の歴史】

現在、そしてこれからの大阪風俗

かくして、ほんの少しの店舗型風俗と多くのホテヘル・デリヘルという大阪風俗業界の勢力図が形成されていきました。その枠組みの中で、新たなアイデアをぶつけあっている状態です。

この先大阪風俗に大きな変革が起こる可能性があるとしたら、いつになるでしょう。予想では、2025年の大阪万博に合わせてなんらかの取り締まりがあるのでは、と考えられています。しかしコロナショックを機に経営が厳しくなっている店舗も増え、自然淘汰が加速してしまいましたので、大きな取り締まりはないかもしれません。

いずれにせよ、大阪らしいアイデアにあふれた、楽しい遊びが生まれる業界だといいな、と思っています。

大阪風俗の歴史総まとめ
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